NPO花岡平和記念会

オープンセレモニーが盛大に終わる!

オープンセレモニーが盛大に終わる! オープンセレモニーが盛大に終わる! オープンセレモニーが盛大に終わる!
NPO法人・花岡平和記念会(川田繁幸理事長)が秋田県大館市花岡町に建設した花岡平和記念館のオープニングセレモニーを4月17日現地で行った。 当日は、花岡事件の生存者や遺族、地域住民が約150人参加し開館を祝い、花岡事件を風化させず後世に語り継ぐことを誓い合った。 はじめに、川田理事長や佐竹敬久秋田県知事、小畑元大館市長、生存者の李鉄垂さん、中国大使館?剣参事官、福島みずほ党首らがテープカットを行った。 川田理事長は「記念館は加害の地に加害およびその前後を事実を記録するものでわが国では異例のものといわれるかもしれません。第二次大戦中に中国から38935人の方々が135の事業所に強制連行され過酷な労働と虐待により、6830人の方々がお亡くなりになった。花岡事件は中国人強制連行の象徴的な事件としていわれますが開館は、花岡であったことを中心に強制連行に限定してという意味で記録する全国の唯一の施設になります。正しく将来に向き合おうとするなら過去の事実と向き合い、若い世代が虐待がなぜ起きたか中国の方々がどのような思いを抱いたか考えることによって人間愛や正しい国際感覚がもち、これからの社会の在り方の指針が与えられるものと思う」と述べた。 福島党首は「多くの皆様が募金活動をし開館にこぎつけたこと、幸存者、遺族の方々が中国から来られたことに歓迎と敬意を申します。開館は二つ意味があると思う。一つは秋田県、大館市で「6月30日」の歴史を心に刻んで慰霊式を行ってきた長い歴史です。市民の皆さんが一緒にやってきたこと。それが記念館に結実したと思います。二つ目は私自身アウシュビッツなどいろんな記念館を行くようにしている、加害を行った場所で加害の地の人と被害にあわれた人と力を合わせて記念館作ったのは世界で最初かもしれない。そのことの意味が大きいと思います。受難者の皆さんを心から追悼し歴史と事実を心に刻み未来をともに切り開いていけると確信しています」と祝辞を述べた。また、川田理事長に程永華大使が看板の題!に揮ごうした書が参事官から贈られた。この後、福島党首らは川田理事長の案内で会館内の展示について説明を受けた。


花岡平和記念館オープンセレモニー
日 時 2010年4月17日(土)午後1時30分  会 場 花岡平和記念館(大館市花岡町)

*こちらは前夜祭の予定です↓
日 時 2010年4月16日(金)午後4時  会 場 花岡公民館   講 演 花岡平和記念館開館を祝う(仮称)   講 師 池 田 香 代 子 さん

NPO花岡平和記念会
2002年4月NPO法人を結成し、第二次世界大戦の末期、中国人強制連行に起因し当地で発生した花岡事件により被害に遭った方々の支援を行うことをとおして真の平和を希求し、もって日中の恒久的な友好を築くことを目的とした活動を開始しました。  そして、こうした活動の象徴として「花岡平和記念館」を建設することを最も大きな目標といたしました。法人の設立以来、全国の多くの皆様のご支援とご協力により多くの寄附を頂戴し、2006年には建設用地を取得し、2008年には東北発の認定NPOの資格も取得し、皆様の一層のご支援のもと、本年、ようやく会館の建設に着手し、去る9月末日をもって完成することが出来ました。 この間の皆様の物心両面にわたる厚いご支援とご助力に改めて深く感謝申し上げます。 会館の正式なオープンは、収蔵物の整備の関係から明年4月以降となりますが、ひとまず建物の完成を祝い、完成した記念館の内覧会と合わせて竣工式を執り行うことと致しましたのでお知らせいたします。
内覧会 と き 2009年10月24日(土)10時~15時         10月25日(日)10時~12時 ところ 花岡現地(大館市花岡町) 竣工祝賀会 と き 2009年10月24日(土)16時 ところ 「北秋倶楽部」(大館市幸町) 特定非営利活動法人 花岡平和記念会 理事長 川田繁幸

中国人強制連行と花岡事件

2004年NPO[花岡平和記念会]総会
2003年NPO[花岡平和記念会]総会

「花岡記念館」の建設にご支援を!
中国人強制連行がもたらした花岡事件を風化させず後世に伝え、子々孫々まで日中友好を引き継ぐために6.30中国人殉難慰霊式に花岡平和記念館建設をめざします。

加害の地から平和の発信を
問い合わせ先:
〒017-0885 秋田県大館市豊町2番37号
TEL 0186-42-6539
FAX 0186-43-1302
E-Mail:apoc@ruby.ocn.ne.jp

振込先:郵便局口座番号 02230-3-76515
加入者名:特別非営利法人 NPO花岡平和記念会
入会金 1000円
年会費 3000円
カンパ

NPO花岡平和記念会について
NPO花岡平和記念会について (1) NPO花岡平和記念会について (2)
NPO花岡平和記念会について (3) NPO花岡平和記念会について (4)

NPO花岡平和記念会について NPO花岡平和記念会は花岡事件を語り継ぎ、生存者と遺族の交流を通じて加害の地から平和を発信することを目的に6月に発足し会員は約60人。 川田繁幸理事長は11月28日市役所で記者会見を行い募金を訴えた。

 記者会見では花岡記念館建設に向けたリーフレット1万部作成する等、募金活動が始動したことを報告した。 計画は、記念館建設地は同市花岡町地内とし建設資金の目標額を1億円とした。

 コンセプトは資料・保存型とし、花岡事件の調査、研究を基調とする。フィールドワークのベースとする。現地大館における生存者・遺族との交流の足跡となるもの。以上を柱に若者や子どもに歴史がどのように正しく伝わるかというようなイメージを提示するもの。

 展示物は現物資料が多いのでCD-ROMに保存しパソコンによる閲覧方式の検討などとした。川田理事長は「寄付は個人や企業をリストアップするなど全国から募りたい。生存者が高齢なので2年後の16年度をめどに記念館建設を実現したい」と述べました。
リーフレットの中から一部紹介します(希望者はご連絡ください)

花岡事件とは
私たちは、戦時中の中国人強制連行を象徴する「花岡事件」がおきた秋田県大館市で、虐殺された418名の中国人犠牲者の、古くは遺骨送還を、今では毎年の慰霊活動を行い、又、生存者・ご遺族との交流を通じて、かつての加害の地から平和を発信する取り組みにかかわっております。

 第2次世界大戦のおり、日本は中国大陸に侵略戦争を展開し、現地での労働力確保のため中国人の捕虜、民衆を使役し、侵略が拡大するにつれて、その範囲も拡大しました。 同時に、徴兵強化により日本国内の労働力も不足をきたし、特に戦争遂行に欠かせない鉱業関係でその傾向は顕著でした。 当事の東条内閣は、1942年11月「華人労務者内地移入の件」という閣議決定で中国人強制連行を国策として遂行しました。

 秋田県大館市。 青森、岩手、秋田という北東北3県のほぼ中心に位置するこの地方は、古来から銅の産地であり、当事の北秋田郡花岡町には藤田組(現在の同和鉱業)の花岡鉱業所がありました。 銅の戦時増産体制が敷かれる頃には、労働力が不足し、中国人強制連行に負うところが大きくなりました。

 藤田組の土木部門を請け負っていたのが当事の鹿島組であり、3次にわたり986名の中国人が強制連行され、「中山寮」と呼ばれる施設に収容され、苦役を強いられました。 このうち418名は中国の地に生きて帰ることができませんでした。

 これは厳寒の地にあって寒さと飢えを凌ぐには程遠い衣食住しか供されず、極度に劣悪な衛生状況の下、限界を超えた過酷な労働を強いられ、さらに補導員が筆舌に尽くし難い虐待と凌虐の限りを尽くした結果にほかなりません。 その死亡率は約42%に達し、死亡者数の多さと合わせ、日本国内でも有数の劣悪な実態を示しております。

 花岡では、過酷な労働と虐待に耐えかね、1945年6月30日、「民族の尊厳、そして人間の尊厳を守るため」一斉蜂起し、近くの獅子ケ森などに逃走しますが、それは失敗に終わります。 憲兵隊、警察に現地の民間人をも加えた圧倒的多数の日本人により鎮圧され、鉱山の娯楽施設「共楽館」前広場に3日間、炎天下に数珠繋ぎにされ、虐待が加えられ、この間だけでも100人以上が虐殺されました。

 連行された中国人のうち、首謀者は、戦時騒擾罪として送検され、11人が起訴され、敗戦後の9月11日、無期懲役1人を含む判決が秋田地方裁判所で下されました。 この出来事は、戦後秋田に進駐したGHQの知るところとなり、鹿島組の補導員及び地元警察はBC級戦犯を裁く横浜裁判にかけられ、死刑3人を含む6人が有罪とされました。(後に減刑され死刑執行はなし)


地元の運動
 戦後、花岡事件は、地元における加害意識も手伝って、「負の遺産」については語られないことが通例となっていきます。そんな中。1949年8月、地元の朝鮮人連盟に属する金一秀、李鐘応の2氏が、散乱している中国人の遺骨を発見して「留日華僑民主促進会」に連絡し花岡事件が世に知られることになりました。その後遺骨を預けられた信正寺住職の訴えを無視してきた鹿島建設は、1949年10月、中華人民共和国が誕生すると、ようやく寺の裏手に「供養塔」をつくりました。翌50年10月から11月にかけて、地元と東京で慰霊祭が開催されました。

 こうした運動の積み重ねと総評、日本仏教連合会等の国民運動の結果、53年7月の第1次遺骨送還で祖国への帰還が実現しました。60年4月、散乱する遺骨が再度発見され、63年6月には全国に呼びかける「一鍬運動」を展開、500名を越す参加者の手で12箱の遺骨を収拾しました。この時、十瀬野公園に「中国人殉難烈士慰霊之碑」が建立されました。66年には、全国に呼びかけるとともに、毎戸訪問によるカンパ活動を展開し、市民運動の結晶として、中山寮を見下ろす小高い丘の上に「日中不再戦友好碑」を建立しました。翌67年、花矢町(旧花岡町)は合併して現在の大館市になりその後は市民団体が慰霊行動を継続してきたものの、時と共に風化は進みました。

 こうした流れに歯止めをかけるべく、若い労働者を中心に事件を語り継ぐ早朝行動が始まり、85年には大館市主催の慰霊式が市民体育館を主会場に挙行されました。この慰霊式を契機に、中国から生存者やご遺族が来日され、市主催の慰霊式に参加されるようになりました。そこでは、慰霊式と現地実行委員会が実施する関連行事を通じ、中国からの方々と多くの市民が交流を重ねてまいりました。

裁判と和解
1989年12月、花岡事件の生存者・ご遺族が「花岡受難聯誼会」を結成し、鹿島建設に「公式謝罪」「記念館の建設」「補償」の3項目要求を提起しました。90年7月、鹿島は聯誼会との「共同発表」において、「深甚なる謝罪の意」を表明し、3項目の一つは実現しました。残る二つについては、共同発表後の交渉が進展せず、花岡事件から50年目にあたる95年6月、ついに東京地裁に提訴することになります。

 1審は門前払いの判決でしたが、東京高裁において、20世紀もあと一ヶ月足らずとなった2000年11月9日、職権により勧告された和解が成立しました。その内容は、90年の共同発表を再確認のうえ、鹿島側が中国紅十字会(中国赤十字会)に5億円を信託し、「花岡平和友好基金」を設立して全体解決をはかることになりました。11人の原告が986人の問題解決をはかるスキームは、画期的といえます。01年6月30日、和解後初めての生存者・ご遺族、中国紅十字会等の関係者40名余りが、02年にも同様に50名余りの方々が花岡平和友好基金の慰霊活動として大館を来訪しました。現地を訪れるご遺族は、この旅を通じ、現地での多くの生存者から語られる肉親の死を50年数年ぶりに実感として受け止めることができ、生存者も往時の無念さに思いを馳せることで、慰霊の感を深くされております。

NPO花岡平和記念会
 生存者とご遺族の発見以来、毎年大館市で開催されている慰霊式に多くの中国の方々が訪れることになりました。はじめは当然のことながら、反日感情が強く、頑なであった生存者やご遺族が、全国の支援の方々や現地で温かく迎える人々と触れ合うことにより、次第にわだかまりが氷解し、かつて地獄のような労苦を味わった、あるいは、かけがいのない肉親を失った人々が、長年の深い傷を癒すことができた、そんな声が徐々に沸いてきたように見受けられます。大館の地で花岡事件の支援を通じ平和を希求する私たちは、毎年、生存者とご遺族を受け入れ、関連するフォーラムの開催や現地フィールドワークの実施のために「6.30実行委員会」を構成してまいりました。

 しかし、2000年11月の和解成立を受け、恒常的に花岡事件に触れ合うことで、次の世代にこの「事件」を語り継ぎ、更なる交流により、かつての加害の地から真の平和を発信することを目的に、01年5月、「日中平和大館会議」を結成し、その発展的な形態として、02年6月、NPO法人「花岡平和記念会」を設立しました。この法人の活動目的の一つは、これまでも実施してきた様々な活動の継続であり、もう一つは、花岡事件を記録し、全国から当地を訪れる皆様を現地にご案内するための施設として「花岡平和記念館」を建設し、常設の資料展示場と現地フィールドワークのベースとして活用したいということです。先に述べた3項目要求の残された課題が、この「記念館建設」であることからも、是非この記念館の実現に向けて皆様の絶大なご協力をお願いいたします。


役員
理事長 川田 繁幸
副理事長 田中 宏
副理事長 谷地田恒夫
理事 内田 正敏
理事 猪 八戒
理事 伊藤治兵衛
理事 石田 寛
理事 鈴木 泰人
理事 誉田 正司